吉積めぐみ、21歳。1969年春、新宿のフーテン仲間のオバケに誘われて、"若松プロダクション"の扉をたたいた。当時、若者を熱狂させる映画を作りだしていた"若松プロダクション。そこはピンク映画の旗手・若松孝二を中心とした新進気鋭の若者たちの巣窟であった。小難しい理屈を並べ立てる映画監督の足立正生、冗談ばかり言いつつも全てをこなす助監督のガイラ、飄々とした助監督で脚本家の沖島勲、カメラマン志望の高間賢治、インテリ評論家気取りの助監督・荒井晴彦など、映画に魅せられた何者かの卵たちが次々と集まってきた。撮影がある時もない時も事務所に集い、タバコを吸い、酒を飲み、ネタを探し、レコードを万引きし、街で女優をスカウトする。撮影がはじまれば、助監督はなんでもやる。現場で走り、怒鳴られ、時には役者もやる。
「映画を観るのと撮るのは、180度違う...」めぐみは、若松孝二という存在、なによりも映画作りに魅了されていく。
しかし万引きの天才で、めぐみに助監督の全てを教えてくれたオバケも「エネルギーの貯金を使い果たした」と、若松プロを去っていった。めぐみ自身も何を表現したいのか、何者になりたいのか、何も見つけられない自分への焦りと、全てから取り残されてしまうような言いようのない不安に駆られていく。
1971年5月カンヌ国際映画祭に招待された若松と足立は、そのままレバノンへ渡ると日本赤軍の重信房子らに合流し、撮影を敢行。帰国後、映画『PFLP 世界戦争宣言』の上映運動の為、若松プロには政治活動に熱心な若者たちが多く出入りするようになる。いままでの雰囲気とは違う、入り込めない空気を感じるめぐみ。
ひとり映画館で若松孝二の映画を観ているめぐみ。気付かない内に頬を伝う涙に戸惑う。
「やがては、監督......若松孝二にヤイバを突き付けないと...」