登壇するのは、若松孝二の盟友である映画監督・足立正生(87歳)と、晩年の若松孝二作品を支えたプロデューサー・大友麻子(50代)。
そして司会を務めるのは、映画『止められるか、俺たちを』の脚本、そして『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』の脚本・監督を手掛けた井上淳一(60代)です。
それぞれの時代で目撃した、若松孝二監督の破天荒ではちゃめちゃなエピソードが満載!
今年も大盛り上がり間違いなしの熱いトークをお楽しみに‼
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活動家の逮捕が相次ぐ中、先鋭化した若者たちによって、連合赤軍は結成され、1972年2月のあさま山荘へと至る。
その後、彼らの同志殺しが次々と明らかになり、日本の学生運動は完全に失速──。
あの時代に、何が起きていたのか。
あさま山荘へと至るあの激動の時代を、どうしても今、映画として残しておきたいと、若松孝二が、自ら費用を捻出し、製作に踏み切った。
「映画に文法はない。志さえあれば映画は撮れる。俺にあるのは『あの時代、彼らは何に怒り、立ち上がり、全てを捨てて闘おうとしたのか。
権力側からの視線ではなく、実録としての作品を残す』という志、これだけだ」と若松孝二は語る。
猛吹雪の中から、黒い人影が現れる。人影は、腰まで埋まる雪をかき分け、亡霊のように雪原を進んでいく。その背中に、粛清した同志たちの痛みを背負って……。
1972年2月、日本中を震撼させた「あさま山荘事件」。山荘に立てこもり、警察との銃撃戦を繰り広げたのは、連合赤軍の兵士たちである。
テレビ視聴率89.7%、日本中の目を釘付けにした「あさま山荘」の内部では、一体何が起きていたのか。彼らはなぜ、山へ入り、同志に手をかけ、豪雪の雪山を越え、あさま山荘の銃撃戦へと至ったのか。
そして、「あさま山荘」の中で、最年少の赤軍兵士の少年が叫んだ言葉とは──。
1936年4月1日、宮城県生まれ。高校2年時に上京、様々な職を転々としながら、テレビ映画の制作助手、助監督を経て、『甘い罠』(63)でピンク映画デビューを果たす。次々と意欲作を続け、ピンク映画界で押しも押されぬ存在となる。1965年、若松プロダクションを設立。第一作『壁の中の秘事』(65)がベルリン国際映画祭に出品され、既存の映画界はこれを国辱だと糾弾し、大スキャンダルが巻き起こる。
その後、ピンク映画を更なる自由な創造の場へと変革するために、大和屋竺、足立正生、沖島勲、小水一男ら新しい才能を積極的に登用し、性と暴力を徹底的に描き上げた数々の傑作を生みだしていく。
1971年、カンヌ国際映画祭監督週間に大島渚と共に招待され、その帰途で足立正生とパレスチナに向い、アラブゲリラの日常を写したニュースフィルム『赤軍-PELP・世界戦争宣言』を撮り、赤バス上映隊を結成、新宿を皮切りに全国上映運動を展開する。
続いて、初のATG映画となる『天使の恍惚』(72)を完成させるが、相次ぐ爆弾闘争、連合赤軍による浅間山荘事件が起きていく状況のなかで、上映反対キャンペーンが展開され、日本映画史に残る問題作となる。
1974年、足立がパレスチナに越境してから以降もピンク映画を量産し、その一方で、大島渚『愛のコリーダ』(76)のプロデュースを手掛け、2作目となるATG映画『聖母観音大菩薩』(77)などを挟んで、内田裕也を起用した『餌食』(79)、『水のないプール』(82)から一般商業映画に活躍の場を移す。
その後、俗に昭和三部作とも呼ばれる『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(08)、『キャタピラー』(10)、『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』(11)を完成させた。
『キャタピラー』では、寺島しのぶがベルリン国際映画祭の女優賞を獲得し、世界的に注目され、再評価された。2012年に遺作となった『千年の愉楽』を監督し、さらなる映画製作に意欲をみせていたが、2012年10月17日新宿の路上にて交通事故により永眠、享年76歳。事故の直前まで映画製作の打ち合わせをしていた。